POSTLUDIUM

2014.07.09

昨年末に僕の3rdソロアルバム「POSTLUDIUM」をリリースしました。
そのアルバムについて、大内拓志くんにもらった感想メールがおもしろかったので
このブログ用に掲載させてほしいと伝えて、おくって頂きました。
大内くんは音楽文化論を研究していて、僕にも音楽についていろいろ興味深い話をしてくれます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 伊藤ゴローは、ボサノヴァはもちろんのことロックやポップス、民族音楽に加え、西洋音楽の歴史や語法にも精通している音楽的見識の広い音楽家だが、新作の『POSTLUDIUM』にはそうした様々な音楽的要素に加えて、ヨーロッパの即興音楽の要素も取り込まれているように思われる。

ジャズや現代音楽、民族音楽など、多様な音楽的領域を越境しながら構成されるヨーロッパの即興音楽は、それ自体が複雑な音楽的出自を持つ音楽だが、音楽家たちは自らの知性と音楽美学によってそれらを統合し、全く違和感のない(あるいは違和感自体も構造の中に組み込んで)統合体としての楽曲を創り上げていく。

『POSTLUDIUM』において伊藤ゴローは、彼が蓄えた様々な音楽語法を一切の不自然さを感じさせることなく、ひとつの統合体として構成しているが、その中で構造的に重要な役割を果たしているのが「Opuscule」と名付けられた曲群である。

全編に渡って差し挟まれる即興演奏の「Opuscule」は、作品全体に意図的な不定形さを組み込み、細心の注意を払って構成された既製曲をつなぐ糸のように機能すると同時に、アルバム全体に多面性と立体感を与えている。「Opuscule」によって、各曲の持つ音楽的多様性は、その性格を損なわれることなく、伊藤ゴローの求めるひとつのヴィジョンへと収束されていくように感じる。これほどまでにジャンルを越境した音楽的に多様な要素が、お互いに邪魔し合うことなく同居している作品もなかなかないのではないだろうか。

 そのため、こうした音楽的多様性をもつ作品は必然的に、わかりやすく音楽をひとつのカテゴリーに入れることである程度のリスナーを獲得している現代の日本の音楽シーンの中で、そのようなテゴライズを激しく拒むような作品となっているように思う。市場の原理に従って、「ポストクラシカル」や「アンビエント」などとカテゴライズすることで聴き手の耳を固定化し、特定の音楽的嗜好にアディクトさせるような現代の日本の音楽シーンの中に、このアルバムに適したカテゴリーが存在するのだろうか。その意味で、「POSTLUDIUM」のようなアルバムは先述のような領域横断的、かつ統合性のある音楽を正当に評価する下地のある国外のリスナーにこそ、その真価が伝わる作品なのかも知れない。

 ところで、ジャンルやカテゴリーといったものに囚われず、音楽家が自らの美意識と関心に従ってある音楽的テーマを突き詰めた『POSTLUDIUM』のような純音楽的な作品を試みに形容してみるとしたら、一体どのような言葉が適切なのだろうか。

「無国籍」という言葉を充てるのは誤解がないようにも思うが、聴き込むにつれて感じるのは、『POSTLUDIUM』は「無国籍」というよりもむしろ、現在の東京という場と空気、そしてそこで得られる様々な音楽的蓄積を、伊藤ゴローの美意識で捨象した作品なのではないかということだ。そのため今の東京という場を少しでも知るわれわれにとってはそれが「無国籍」であるかのように感じるのではないだろうか。

「Postludium」や「Plate XIX」で、伊藤ゴローが意識的に取り入れたという倚和音や偶成和音が生む一瞬の不安定な美しさと緊張感は、われわれの耳に非常にリアルな、ある意味で馴染み深い、存在感のある音として入ってくる。それは取りも直さず、現代の東京という場で得られる美しさであり、不安定さでもあるようにも思われる。その意味で『POSTLUDIUM』は、言葉のそのままの意味での「現代音楽」と言えるし、このように時代の空気や気分の核心を捉えることでそこから普遍性を獲得し、古びることのない音楽をこそわれわれは「古典」として飽きずに聴き続けることができるのではないだろうか。

 また、先述の倚和音や偶成和音といったような作品全体に仕掛けられた音楽理論的な要素の分析や、前作『GLASHAUS』との作品の関係と連続性などに関しては、今後伊藤ゴロー自身が解説を行う予定があるとのことで、『POSTLUDIUM』の音楽的多面性は今後も更なる視点を与えられ、拡がっていくことになるだろう。

大内拓志