捨てられた雲のかたちの In the Shape of an Abandoned Cloud

2017.04.08

アルバムについて大内拓志くんが解説をしてくれました。

伊藤ゴロー『捨てられた雲のかたちの』

 映画にはロードムービーがあり、文学には紀行文学というジャンルがあるように、伊藤ゴローの三枚目のソロアルバムは、「旅」や「移動」といった言葉を強く想起させる、音楽によるロードムービーとでも言いたくなるような作品である(ただし、物語として始めから終わりまで一貫したストーリーを語っているというよりも、各楽曲が断片的なシーンを形成しながら、緩やかに有機的連関を保っているというイメージである)。一体、この「旅」や「移動」という印象はどういった点に由来するのだろうか。ブラジルと東京で、全く違ったメンバーで録音された楽曲の空気感の違いなのか。あるいはアルバム全体を散りばめられた”Land”という楽曲群が醸し出す、鄙びた場末の街角に似つかわしい、美しくも不穏な音楽のためなのか。それとも単純にアルバムタイトルの由来である、水蒸気と化した雲の当て所ない逍遥を描いた平出隆の詩、「捨てられた雲のかたちの」のイメージによるのか。

 というのも、伊藤ゴローは作中において、たとえば「中央アジアの草原にて」でボロディンがロシア民謡を、ドビュッシーが「塔」で東洋風の五音音階を使ったように、異国情緒を感じさせるために地域性の強い音楽的要素を用いるという方法をとってはいない。ブラジルの音楽家たちとリオで録音を行ったとはいえ、ショーロやサンバのようなブラジル音楽の素材を多く使っているわけでもない。この作品から受け取る「旅」や「移動」といったイメージは、上記のようなわかりやすい音楽的地域性を利用したものではないように思われる。実際、セッションに参加した演奏家たちの多くは、ブラジル音楽ではなくジャズをメインに学んできたアーティストたちである。加えて、セッションは上記の”Land”(アントニオ・カルロス・ジョビンが多くの楽曲を作曲した別荘のある自然豊かな土地ポッソ・フンドを指しているとのことである)をキーワードに自由に行われた即興がメインになっており、ある特定の音楽のスタイルを目指して入念に作り込まれた楽曲ではない。

 この点に関して、伊藤ゴロー自身のコメントが興味深い。伊藤ゴローは本作の制作過程にふれたインタビューの中で、海外で現地のアーティストたちと録音を行うことの意義について、「その土地の音」が自然に現れることの魅力を挙げている。ここで言われている「土地の音」は、例えば「ブラジル音楽」や「ボサノヴァ」といった商業的カテゴライズを超えたもので、そうであるからこそ「土地の音」と表現するほかないような何かなのであろう。ひょっとすると「旅」や「移動」といった印象は、セッションに参加した各演奏家たちが持つ、音楽的個性に濾過されながらも自然と表出された「土地の音」と、日本人である伊藤ゴローの音楽との間の距離感の中から生まれてきたものなのかも知れない。異なった土地や文化に生きる者たちの異質性と、現代において共通する音楽的関心を共有している者たちの同質性の出会い、同質性と異質性の出会いは、「旅」の本質でもある。伊藤ゴローの音楽家としての手腕は、安易にその二極を対置せず、セッションの中で主導権を取ながらそれらをわざとらしくなく調和のとれた形で楽曲に昇華させたところに見られる。そのせいであろうか、本作は特定の国のイメージを喚起させるような異国趣味を排した、架空の無国籍都市を旅するサウンドトラックとでもいうような独特の雰囲気の作品になっている。

 さて、伊藤ゴローはアルバム間のコンセプトや美意識の連続性に特にこだわっており、自身の発表するアルバムはひとつの連続性のもとに聴いて欲しいと語っている。今回の作品も当然そうした連続性の中に位置付けられており、本作は『GLASHAUS』、『POSTLUDIUM』と続いた三部作の完結編になるという。

 三部作の連続性でとらえたとき、即興と作曲の間の境界を崩していくような楽曲群や、対立する異質な要素を違和感なく同居させることで各要素の可能性を拡げていく点は、前作からつながる要素である。弦楽四重奏のアレンジのもと、東京で日本人アーティストと行われた楽曲だけとってみても、青森県立美術館のために作られたストレートで明るく親しみやすい「Fly me to the AOMORI」に、不協和音が効果的に組み込まれ、繊細で美しくも不可思議な雰囲気をたたえたタイトル曲と、バリエーション豊かである。ブラジルで現地の音楽家と行ったセッションの楽曲はフリーでジャズ的な印象の曲といった仕上がりで、そこにイタリアのバロック期の作曲家ルイージ・ロッシによる古典歌曲”Mio Ben”が加わってくる。これほどまでに異質な要素がひとつのアルバムとして統一感を保ちながらまとめられているのは、ほとんど奇跡的とでも言いたいほどである。

 一方で、これまでの室内楽的な世界観の音楽から、先に述べたような「旅」を想わせる動的な音楽や、ジャズに寄った響きの粗暴な印象の楽曲など、新しい要素も数多く感じられる。セッションから生まれた”Land”は、どれもこれまでの二作には見られないほど、誤解を恐れずに言えばハードボイルドな曲調である。美しさや洗練の中に、敢えて粗野な要素を入れて作品に奥行きを与えた点は、前二作にはない本作のオリジナルな部分と言えるかも知れない。

 今回のアルバムで垣間見られたこのような新たな要素は、また新しい次のソロアルバムへとつながっていくのではないかと思われるが、伊藤ゴローは次作ではさらにクロスオーバー的に和楽器を使い、自身のルーツである青森という土地に根差した音楽を模索中であるとも聞く。伊藤ゴローの音楽は今後どこへ向かっていくのか。音楽シーンに追随するのではなく、自らの関心に依りながら新たな領域を開拓していくアーティストであるだけに、今回の三部作の音楽がどのように次作へとつながっていくのかとても興味深い。

words by 大内 拓志